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無縄自縛 むじょうじばく [素心]

無縄自縛とは 

自分の空想が固定観念となって、自分の言動を縛ることです。こうした誤りを、禅では無縄自縛といいます。武道では居着(いつく)といいます。

本来の宗教や武道は、己の無駄を省き、自由になるための教えのはずです。ところがこうした世界にこそ、無縄自縛が起きがちです。

私の身の回りの体験で、考えます。

迷いに囚われる誤り

人は誰しも何かを達成する時、目標を立て、それに自らを縛ります。それによって努力し目標達成するならば、とても良いことです。ところが、ここでいう無縄自縛とは、悟りを誤って外に求めたためにかえって迷いにとらわれてしまうことです。たとえば、こんなことありました。

あるN修養団体の指導者、また古流剣術を継承する正当師範でもあるA師。A師は、私も面識あり人柄を良く存じ上げます。このお弟子さんは20代のB君。団体の重要な行事の中、A師は疲れが出て、うとうと居眠りしてしまったのです。それを見つけたB君、どうにも怒りが収まらず、ネットに書き込んでしまいました。

「Aの野郎、居眠りしやがって、いつも人に厳しいこと言っているくせに、ぶん殴ってやりたい!」の類のことです。団体の方々は困ってしまい、様々なだめすかした様子でした。幹部連中がB君に付き添って、古風な詫び状を書かせて、A師に許しを請いました。

一時は、それでことが収まった様子でした。ところがB君、また書き込んでいました。「謝罪させられた。どうにも納得できない。こんな団体辞めてやる」の類のことです。はたしてどこに、問題あるでしょう?A師ですか?幹部連中の対応ですか?B君ですか?

本来は、人間が人間になる道

武道は、武技の修錬による人格陶冶の道です。人間が、より高い人間になる道です。世のご利益・カルト教団の多いことを見ると、武道の方が本来の宗教の姿に近いかもしれません。

私の両親の先祖代々の供養をして頂いているのは、可睡斎(かすいさい)です。ここは、静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院で、寺紋は丸に三つ葵です。本来は東陽軒であった寺の名が可睡斎と改まり、寺紋が三つ葵とは?次のように徳川家康との因縁あるためです。

徳川家康が、幼い頃武田信玄の軍から逃れ、父と共に東陽軒の洞窟にかくまわれたそうです。この時のお礼に家康が訪れた際、この大切な席で仙麟等膳和尚(第11代)は、居眠りをしてしまいました。家康はこの時、「厳しい禅の修行をする寺の和尚が居眠りしやがって、ぶん殴ってやる!」と、怒ったでしょうか?

家康は「和尚、我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ。和尚 、眠るべし」と言い、「和尚が家康を見ること、愛する我が子を見るようであった。今日の家康の成長した姿を見て、ほっと安心して眠った。家康は、和尚の親愛の情がうれしい。疲れているのだから眠れよ」と労わったのです。以来、仙麟等膳和尚が「可睡(眠っていいよ)和尚」と呼ばれたことから、本来は東陽軒であった寺の名も可睡斎と改まり、寺紋が三つ葵となりました。地元の人々は親しみを込めて、「おかすいさい」と呼びます。

禅の修行したからといって、何も超越した人間になるのではありません。人間が素の人間に返るだけのはずです。しかし立場は立場です。与えられた立場に相応しい働きができることも大切です。もちろん武道も同じです。子供の頃より苦労した家康らしい、人間の本質を見抜いた対応です。

N団体の何が問題?

N団体のどこに、問題あるでしょう?居眠りしたA師ですか?幹部連中の謝らせた対応ですか?正論のつもりでネットに公言したB君ですか?

A師:大切な行事、A師はベストパフォーマンスで、臨むべきでした。ところが、眠くてしょうがなかったのです。ただそれだけです。公私混同とか不正と、糾弾されるようなことではありません。悪いと分かっていての行為であれば、責任を問われるべきです。ところがこの場合、責任を問われるような行為ではなく、眠いという生理現象です。

幹部連中:常識のないB君に、謝罪文の書き方・謝り方を、懇切丁寧に指導したに過ぎません。これも当然の対応で、問題なし。

B君:この人は無縄自縛です。

「自分は崇高な目標で、修行に参加している。指導するA師は、凡人を超越し厳正な人でなければならない」と、思っていた。

ところがA師は居眠りをして、全く凡庸な姿を大衆にさらけ出してしまった。そこでB君の思っていた崇高なイメージは、瓦解してしまい、怒り狂ったのが真相です。これは、無縄自縛以外の何物でもありません。

悟りを誤って外に求めたため迷いに落ちたB君自身が悪いのに、それを受け入れません。こんな人は、どう扱うべきでしょう?一休さんに「クソとお経」の話あります。

一休さんなら

「クソとお経」では、弟子たちが読経をしているところに、一休さんが、出したばかりの一本糞を持って登場。その下には、お経が書かれた書物ありました。兄弟子が「ありがたいお経に、なんと粗末なことをするか?」と激怒すると、一休さんは「無縄自縛だな」と言い放ち、「経をありがたいといった時点で、自分の外の何かに縛られることになる。世間や常識、ありもしない縄にしばられず、自分の答えを見つけるのだ」と説いた話です。

一休さんがB君を見たら、B君の頭の上に、一本糞を乗せてしまうでしょう。「正論を言っているつもりのB君、ありもしない自分の正論に縛られているぞ!」と、教えるためです。もちろん一休さんが、そこまで人を傷つけることを、するはずありませんね。私の誇張、言い過ぎです。

ただしB君の心の目を開かせるには、荒治療が必要です。「家族がいるから、自分がいる」・「道場があるから、自分が学ばせていただける」、こうした初心と感謝を、忘れています。

武道の道場でも

武道道場も人間集団、本来の目的をはき違えた人が、いろいろな問題を起こします。私は主宰者として、相応の判断をしなければなりません。すると手のひら返しで、口汚く執拗に罵られたものです。

先ほど私は「人間が素の人間に返るだけのはずです。しかし立場は立場です。与えられた立場に相応しい働きができることも大切です」と申しました。「素の人間」とは、世阿弥の言葉を借りれば、「初心忘れるべからず」ともいえます。「立場に相応しい働き」とは、世阿弥の「時々の初心」ともいえます。

初心と感謝

白帯には白帯の初心。黒帯には黒帯の初心。指導員には指導員の初心。理事や代表者にはそれ相応の初心、あるべきです。そしてこの初心は、感謝を持続できているかということと、密接と思います。

今ここに、学ぶ場があることへの感謝。

今ここに、学ぶ仲間があることへの感謝。

誤りを示してくれる先人・指導者や先輩への感謝。

稽古へ送り出してくれる職場や家族への感謝。

稽古できる心身を与えてくれた先祖代々と両親への感謝。

以上のことを、私は省みるようにしています。何かこれらの外側に関心や言動が向いていたならば、無縄自縛に掛かりつつあるかもしれないです。


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