古武道:第7回 柔剣雷心会演武会 「瞬雷剣美」 のお知らせです [武道:剣柔一体(気剣体)]
荒川区を拠点とする 永野 勝 先生が主宰される柔剣雷心会 演武会が行われます。
私も何回か参加させていただき、たいへん有意義な学びを得ました。この機会にぜひとも多くの方々に、ご高覧賜わりたく存じます。
今年のテーマは 「瞬雷剣美」
日時:平成23年11月19日 開場午後6時・開演午後6時半~午後8時終了予定
入場料:500円
会場:ムーブ町屋3F (東京都荒川区荒川7-50-9) 千代田線町屋駅0番出口1分
内容:「武術と舞踊・鼓・太鼓・尺八のコラボレーション」。武道・武術の経験のない方も、お楽しみいただけます。
私が参加させていただいたのは、母の病気が進む前の頃の事です。その後、永野先生もますます進化され、「場の力に和合した体楽」の境地に至ったのではないかと想像します。
ご本人は「武術の本来の動きでどう魅せるか。 演奏家やダンサーの動きにどう刺激をもらうかと研究中です。」と、仰せになっています。
楽しんでくださーィ!
素振りの目的は?呼吸・拍子というものの理解。柔らの身体使いに帰結する。そこが剣柔一体。 [武道:剣柔一体(気剣体)]
aikijpWhat is the purpose of Suburi?Kenjutsu basic #goo_ichirakusai3 http://t.co/Y9W8zZe08/22 22:05
Kenjutsu Kesagiri Awase practice
力抜きといっても、いろいろなので?小手返しに見えるけど、軸抜き。様々な状態から弱腰に崩す。 [武道:剣柔一体(気剣体)]
2011山中湖 刀法・身法・心法三つの一致。これ略して剣柔一体。 [武道:剣柔一体(気剣体)]
一枚目 大上段正面切りの受け方。
山本君が「相手の中心線を取って、交点に身を入れろ!自然と三角形ができて、自然に勝って受ける事ができる」と。
説明しているのかな?今となっては分からないのだ。
二枚目 主将の窪田君。たまたま眼を瞑っていたのか?
剣では眼を瞑る癖があるのかな?今となっては分からないのだ。
「男は目に糸を引け」。心の色を見せてはならないけれど、瞑ったら駄目だよー
三枚目 袈裟切りの受け方。
位置関係の「氣剣体」(きけんたい)一致。中心線と交点に入る事は、大上段と同じ。
失敗すれば、「危険たい!」(きけんたい)。顔切られるぞー!
この写真の形では、やや怪しい。
四・五枚目 袈裟切りの切り方。
動作における「氣剣体」(きけんたい)一致。
これは高度!
この写真の形では、だいぶ怪しい!
剣の理が、柔の理であってはじめて、力抜きの入り口へ。
これが剣柔一体。
半身の一致 [武道:剣柔一体(気剣体)]
「ぶつかる」と「つながる」の差をつぶやく [武道:剣柔一体(気剣体)]
中学3年の御子さん、試験休み一度して、参加してのこと。ぼそりと
「やっぱ!休むと駄目だな!」
とつぶやくのが聞こえた。この子も、大したものだな。幼児から稽古しているが、何を稽古するか、着眼点が高い。言った本人は、この本音から出た言葉を、つぶやいたことさえ記憶しないだろう。私は自然に出たさりげなさが、嬉しかったのだ。
力技なのか、合気なのか、その差は?
「ぶつかる」と「つながる」の差でもある。彼は一度の稽古の休みで、その微妙な「つながり感覚」が狂っていることを自覚して 、あの言葉をつぶやいたのだ。
「接点感覚」と「身の入れ方」だぞ。正しい刀法を会得して、それを身法とする。そこに剣柔一体がある。そして力抜きの崩しの術がある。
いいぞ!中学生!この子は、ものになる!
木刀供養 [武道:剣柔一体(気剣体)]
ここ数年使った木刀の劣化が激しい。剣先三寸から下が、えぐれてしまった。お稽古相手にささくれが刺さって、怪我をさせる可能性もある。長く稽古を手伝ってくれた木刀に感謝しつつ、供養する時が来たようだ。
天命これ性と謂い、性に従うこれ道という。木刀は木刀の性に従う、これが木刀に対する供養というものだろう。
剣先四寸あたりで切り落とし、小学生が使う木刀として再利用するのが、第二の木刀人生となります。この日は他にもう一本、本部道場のものを切り落としました。
さすがに鋸を入れる時は、往時を惜しむ。手に馴染んだ感触が、懐かしい。どうかこれからは子供の鍛錬のために、働いてください。そう願いつつ、ざっくり斬り進めたのでした。
(写真は自宅玄関にて)
剣柔居一体 [武道:剣柔一体(気剣体)]
膝行。「しっこう」と読む。合気は、会津の殿中武術に起源を求める説に符合して、どの会派でも必ず行われる基本動作である。それだけにこの動作を比較すると、そこの指導者がどのような考えで全体の修錬を行っているか、垣間見ることが出来る。
私の考えでは膝行において、頭がぶれたり、肩と骨盤を結ぶ線が捻れてはならない。理由は簡単、「膝行は 立てば歩ける そのままに」。膝行と歩行、矛盾があってはならない。「しっこう」という武術的用語があったところへ「膝行」と当て字をしたのであって、元来は「漆膠」であったと考えるからである。
宮本武蔵の兵法三十五箇条の二十八番目は「しつこうのつきと云事」とある。「漆膠のつきとは、敵の身際へよりての事也。足腰顔迄も、透(すき)なく能(よく)つきて、漆膠にて物を付るにたとへたり。身につかぬ所あれば、敵色々わざをする事在り。敵に付く拍子、枕のおさへにして、静成る心なるべし」。
私が学ばせていただいている会津伝小野派一刀流では、斬り落とした後、敵の切り返しを殺すために漆膠して中心を取りに行く動作がある。そしてこれは、居合「横雲」の二太刀目の動作でもある。こうして今更に、なるほど武術は「剣柔居一体なのだ」と、思う次第である。
注)漆はアスファルトと共に、石器時代より接着剤として使われていた。割れた器や物を、膠着させるために漆を使うことが、 生活の中で行われていた。それが武術の中でも、相手と接着するように中心に入り身になることを、「漆膠」(しっこう)と呼ぶようになったと思われます。
大東流と合気道 [武道:剣柔一体(気剣体)]
武術と武道、様々な定義はあるだろう。結果と過程から考えてみる。
武術は結果が全てであって、勝が得られなければ過程の大半が無価値になる世界。
武道は勝ちにゆくが、その過程が様式と精神において美しくなければならない。その美しさは結果が出た後も、生き方全般も、求められる。それを礼儀正しくという場合が多い。
しかしこのような修辞的な区別には無理があり、重要なことではない。
武術が全てであった時代でも、仏教や論語を深く学んだ方々はあった。今日の武道と称する世界にあっても、名利を求める人は多い。
だから修辞的区別に捕らわれることは、現実世界に目を瞑るに等しい。
さて話題が大東流と合気道の定義となれば、どうだろう。術と道の定義に止まらず、武田惣角先生と植芝盛平先生の個性に対するより好き嫌いの感情が入って、大東流好きの合気道嫌い、合気道好きの大東流嫌いは多い。両方を学ばせていただいている私はかねてより、保存、活用、創造と分けて考えればよいと思っている。
では私は、大東流「家」なのか?合気道「家」なのか?
今の私には、どうでもよいこと。武の旅の、どこに居るかの問題に過ぎない。たとえば船に乗るとしよう。川の流れに乗っている。河口に浮かんでいる。海を航海している。いろいろだ。
合気道という川から船に乗る人がある。大東流という川から船に乗る人がある。中には河口まで来れない人がある。海を航海できる人もある。
川の流れはそれぞれに違うが、海に流れ込めば一つの世界。
「武は一つ」。そういう言葉を聞いたことがある。一つとは何だろうか?合気という船旅が、河口に至って見えるもの。剣の理合い、手の技法と崩しの術。これを大東流山本角義派では剣柔一体といい、合気道では△○□という。
武の船旅が海へ出れば、術と道も。心と身体も。意と形も一つ。
武の旅は 一致の一で 心楽氣和
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玄関 5 本部道場 [武道:剣柔一体(気剣体)]
写真は本部道場の事務所入り口。つくばいを置いて、和風にしてあります。

実は5年ほど前に、自分で作りました。この玄関に立つと、当時の作っていた自分、今見ている自分。この対比に感慨深いです。
石が紫外線に焼け、雨にさらされ、風合いが生じています。時の経過を越えて、私も稽古の在り方も、年齢なりに風合いが出来て?どうかな。
あの頃、私は形ばかりの稽古をしていることに、行き詰まっていました。というか、出来ない自分に耐えられなくなっていた。
呼吸?
合気下げ?
△○□?
剣柔一体?
名前ばかりの氣と丹田?
和合、繋がる?
身体を使えていない自分が、そこにありました。
そんな時期のこと、出水先生(免状作成http://blog.so-net.ne.jp/ichirakusai/archive/c10913)との会話に、ヒントを得たのです。出水先生が昔、墨絵を大平華泉先生に習っていた時のこと。意臨形臨背臨。そう学んだというのです。(意心形心のP48)
背によって意と形が繋がるということ。簡単にいうと、形の表にのみならず、形の裏をしっかり描いてはじめて、意を表現出来る、そんなことだと理解しています。
剣柔一体、剣と柔を繋ぐものは何か?合氣とは小野派一刀流剣術の理合いのこと。その合氣による体術が、合気道なり合気柔術であるという。
これらを繋ぐ形の裏を描こうと、取り組み始めたのが40才の頃です。(身体では内側、氣と丹田の錬りのこと)
まず自分の身体を整える前に、生活の場を調える。そう思って東側には煉瓦を敷いて、入口にはこの写真の空間を作ったのでした。
学んで己の無学を知る。いつまでも、新しい課題が尽きません。でもそろそろ、このスペースを片付けるかな?自転車を置くスペースも増えるしねえ。
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かれいのかれいど [武道:剣柔一体(気剣体)]
かれいのかれいど、カレーの辛い度。
カレー専門店のカレーライスがどれだけ辛いかの話、ではありません。
私の「加齢の華麗度」の話です。
華麗度、序の口
お店で何かを買う。お金を支払う。そのまま出ようとする。
店員さんがあわてて、お客さんこれ忘れていますよ!!と、商品を渡してくれた。
華麗度、大関
電車を降りて歩いている時、股関に風が通る。
おやっ!と思う、社会の窓が完全に開いている。
いつから開いていたのだろ?
あっ!ズボンをはいてからずっと、オープン ザ ウインドゥ。
こうしたことが、最近、多くなってきた。
変な誤解を受けて訴追されると、有罪率99%、我国は世界最高比率。
もしそんな時、妻は私を信じてくれるだろうか?これが問題だ。
華麗度、横綱
地下鉄に乗る、座席に着く。
電車の揺れに身を任せていると、左側から腕に何か尖った(とがった)ものが、私の左腕に当たる。なんだろうと思って、落とし目で左を伺う。あっ!
左隣には女性がいて、私に向かって彼女の右肘を尖らせている。
「キモイ!このラインより近づくな!」そんな意味なのだ。
私は眠って左によさり掛かったのではない。単なる電車の揺れに、身を任せていただけなのに。それはあんまりではないか。
しかし驚く。彼女の右肘は、正確に私の正中線を狙っている。彼女の正中線・彼女の左肘・私の正中線が、一直線。三位一体!右肘の尖がり一つで、確実に私の身体を抑えている。剣の正眼の構えで、相手の中心と結んでいるのと同じだ。
すごい、こんな場所で剣柔一体を体験するとは。恐るべし、OLの電車通勤。
注)キモイ:気持ち悪い意味の若者言葉のようです。
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稽古始 [武道:剣柔一体(気剣体)]
午前中は事務。午後は稽古始だ。もう、身体を動かして準備しておかないと、土曜日の文京の稽古で×だ。毎週土曜日は、9時間指導で、動かなければならない。(移動時間を除く) 息子を供に、サッカーボールを持って小学校のグランドへ。さすがに地方都市の郊外ともなると、校庭は広いな!多摩地区とも比較にならない広さだ。これをほとんど独占して使えるのだ、気分だけは豊かだぞ!
他に野球の親子が二組。どうやらお父さんは、少年野球の指導者のようだな。系統だった指導をしている。キャッチボールで身体を暖めてから、遠投。守備。バッティング。フォームも細かに直してしている。小学4年生ほどのお子さんだ。
私にはこうしたスポーツの能力もなければ、専門的な指導法も知らない。単に稽古の世界に身をおいた者の疑問を、述べたいと思う。
私にはあのような野球の指導は、分からない。自分自身にも、息子にも、いや普段の稽古でも。指導は簡単なことで、終わる。たとえば今日は息子に対して、次のような言葉しか掛けない。剣柔一体、剣の扱いのままに動くだけだ。
「軸を立てろ」(時には頭を立てろ)
「頭と肩を上下させるな」(時には捻るな)
「正中線(時には半身)とボールと目標に三つ。ラインと氣を通せ」
いい動きが出た時は、大声で褒めてやる。動きが崩れた時は、具体的にどこを直すか、声をかける。
あの野球の指導者が私を見て、「理論的でないスポ根性的指導」と感想を持つ可能性がある。一般的にはそうだろう。しかし本質を掴ませる、それが大切だと思う。小手先の技術で、一時は延びるだろう。しかし個性が失われ、伸びしろもなくなる。子供に大人と同じフォームと技術、やらせる必要はないように思うのだが。
話は江戸時代に飛ぶ。芸道の世界に「一」の大切さに気づいた方々があった。武芸はもちろん、一之太刀とも一刀流とも称し一刀斎と名乗った。一楽斎と名乗った方は、書道・茶道の世界にもあった。
合氣も野球もサッカーも、我らのテーマは「一」でしかない。これが本質だから。息子が「もう降参です」というまで続けた。ボールを洗って、今日の初稽古を終えた。
免状作成 [武道:剣柔一体(気剣体)]
昨日一日遊んだ分、今日は働かないといけない。
まず年賀状書き。そして昨年末の色々の礼状。
そして溜まりに溜まった免状作成。これには手間隙をかけて、想いを入れる作業だ。
まずリストを作る。
免状に4本鉛筆で垂線を引く。
一本目 第何号
二本目 氏名
三本目 生年月日
四本目 審査日
筆で記入する。(これは書家が、私ではない)
乾いたら、鉛筆の線を消す。
定規を当てて、約三箇所(級によって異なるが)印を押す。
朱が乾いたら、道場ごとに仕分けする。
和紙だから、角がつぶれてはならない。
結局皆様に届くまで、何ヶ月も掛かってしまう。
これには皆さんが、相当に不満らしい。
しかし御許しあれ。
この字、本物のすばらしさ!
一時期書道界で、「賞を総なめにした」方のすばらしさ。
今日は印を押しながら、「これすごいよ、見てご覧!こんなの書けないね~!」と私。
(一枚のホットカーペットの後ろで息子が、漢字の勉強。横で妻は洗濯物をたたんでいた。まるで平成の長屋暮らし)
二人に見せる。
「すごいよー!先生(私の書の師のこと)も迷惑に思っているよ?こんなメンドイことやらされて」と妻。
なぜよい字に美しさを感じるか?考えた。
まず中心が確立されていること。
部分部分は、正確な三角形であること。
その合成によって、部分部分が四角であったり、全体が△や▽や□や◇や○となったりであること。
そして疑問は深くなった。
△○□とは、いつも稽古で話しているではないか。
この字の形状の変化は、人間の理想的な動き、相手との関係の作り方と同じではないかと。
字の形状も、空間の力学なのだろう。
結局、同じだ。
これが今日の思考の結論であった。
(ブログに写真でお見せできるようになりたいのですが、どのような作業をするのか分からずしまい・・・御許しあれ)
2月9日に写真追加。出水先生は「こんなお婆ちゃんを、見せてどうするの?」と笑った。
私が何度となくお聞きした言葉を、紹介させていただきます。
「古い人の手本を見たら、その筆の走りから、書いた人の鼓動を感じるまで見尽くす。そういう意味で楽しんだだけで。自然体で。何も残らなくていいの」








