共生 [上杉鷹山]
6月29日(日)雨。日曜日は家を出て14時間のうち半分指導、半分は運転。八王子との行き帰りの道中、4箇所の指導がある。
朝8時過ぎ、駐車場を出るとすぐに、道にタオルのようなものが落ちている。近づくと、白と黒の毛並みの子猫の死骸が、雨に打たれているのだった。これから長い道中なのに、不吉だな。すぐに気を取り直して、何か気づきを与えられたと思うことにした。
(八王子一般クラスの稽古風景)
以前、動物学者が「共生(きょうせい)」について書いていたのを思い出した。生物学的にいう共生とは、弱肉強食の結果生じた均衡状態を意味するようだ。生き物たちは助け合おうと思って、共生しているのではない。この子猫はこの春に生まれたばかりの様子、きっと母猫と離れ離れになって、飢えて行き倒れたのだろう。一緒に生まれたであろう兄弟の猫は、今も母猫の元で育っているのだろうな。母猫はいなくなった子猫を、探しただろうか。地球上に生まれた生命にもいろいろあるが、この猫の命も弱くはかないものだ。生物学的にいう共生とは原初的な意味で、政治や外交で共生という場合も類似した意味合いが残っているような気がするが、福祉的にいう共生が同じものであるはずもない。
紫式部が源氏物語を書いた時代、これも原初的意味で共生が成り立っていたといえる。宮廷では雅(みやび)な世界。都では疫病が蔓延し、罹患した人は家の外に出されて、板の上にでも寝かされた。死ねば川のほとりに捨てられた。この時代、老人や障害者は、どんな扱いをされていたのか想像するまでもない。雅と餓鬼の世界が、それぞれに共生していた。
その点、幕末の上杉鷹山の偉人振りが際立つ。財政破綻した米沢藩の改革の第一に行ったのが、老人・障害者の保護であった。実は上杉鷹山の妻も知的障害者であったが、鷹山は妾を取ることも無かった。鷹山は愛情とともに時に非情な決断をして改革を進めてゆくが、その根本精神は三助(さんじょ)。一つは自助。二つ互助。三つ扶助であった。
鷹山は今日の福祉的な共生としても、充分なあり方を語っていると思われる。今の時代、「一つは自助。二つ互助」、この当たり前が忘れられているような気がする。国家的福祉政策としての扶助は、三番目に過ぎない。「自助あるところに互助あり、互助あるところに扶助ある」そんな意味ではないかと私は思っている。今の時代、家庭や地域の結びつきが壊れてきたことを考慮して、再構築する必要もあるだろうが。
私の合気道楽心館で、家族四人で参加されている方があった。お子さんは三人。その仲の良い姿を、私は羨ましく思っていた。しかしその後に、私は頭を打ちのめされることになった。ある日突然、親御さんから打ち明けられた。「一人は実子で、他の二人は養子なのです」と。
「自分の不明を羞じる」といえばかっこよすぎ、「自分の妬み根性が嫌になった」といった方が実態に近い。
どのような事情かは存じませんが、実子であっても一人前に育てるのは大変なこと。それを自ら縁を結んで分け隔てなく育てる愛情の深さ。ここに凛とした「一つは自助。二つ互助」を、学ばさせていただいた気がするのです。
道場内を見渡しても、こんな家族がある、あんな家族もある、学ばせていただくことばかりが多い活動です。我々はささやかな武道の集い、されどこの国の教育福祉に役立ちたいと思ってきた。他の武道の会であれば断られるような特殊事情のある方も、できるだけ受け入れるようにしてきた。今後も初心を忘れずに、歩み続けたい。
合気道楽心館:http://aiki.jp/
動画ブログ:http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3?
問合せメール:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp
ひな祭り3 [上杉鷹山]
米沢藩、幕末で最も困窮した藩の状況です。言い換えれば幕末の庶民の象徴的姿でもあります。
米沢藩士の中には家名・刀・槍を売って廃業するもの多数。農民は土地を放擲(ほうてき)、逃散(ちょうさん)人口の増加(藩の人口は減るということ)。子供は間引き、人口激減。
この間引きが惨(むご)い。生まれてお母さんの横に寝かされている赤子。お産婆さんは「産湯につけてやるよ」と引き取って、たらいの水に沈める。これが米沢藩に限らず全国に広く行われたが、この時代。
次に江戸川柳の紹介です。
今すてる こ(子)にありたけの 乳(ち)を呑ませ
なくよりも あわれすてごの わらいがお
おかしな言い回しになりますが、この時代、間引かれずに捨子になるだけ、幸せだったのかもしれません。護り育てるのも愛情。今、捨てるのこ瞬間も同じ愛情が、核爆発を起こしている。そんな迫力を、この川柳に感じるのです。名もなき江戸庶民の心情が、リアルに伝わるではありませんか。
上杉鷹山が最初に行った改革は、間引き・老人と障害者に対する虐待の禁止でした。
先の「ひな祭り1」で私は、「我国には、ひな祭り・端午の節句・七五三。子供の成長を祝う節目が、多くあります。なぜでしょう?」と申しました。もう説明の必要は、ありませんね。
「本当によく育ってくれました。貴方は選ばれた命なのですよ。為政者の方々、親戚の皆さんも本当に護ってくれてありがとう。これからもよろしくお願いします」そんな想いなのでしょう。
今の時代、よくよく考え直してみないと、かすれて消えかけている想いが、多くあるような気がします。また幕末にすでに、ロシア・アメリカに領土的侵略を受ける可能性の大きい状況にありました。其の後、明治維新という権力闘争と革命という二面を持つ事件、激動の時代を経て豊かな今日があります。個人的にですが、アジア諸国への植民地政策と太平洋戦争の敗戦というマイナスは大きいけれども、・・・・
いろいろ言いたいことはあるけれど、やめます。一楽斎の役割を越えるので。では、また。
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ひな祭り2 [上杉鷹山]
上杉鷹山は深い愛情と非常さの二面を、兼ね備えた名君です。この登場の時代背景を見てみましょう。
鷹山が家を継いだのは明和四年(1767年)、時の徳川幕府は、十代将軍家冶の時代で田沼意次(おきつぐ)が老中筆頭になっていました。田沼は父親が紀州藩の足軽。あまりしきたりにこだわらず、重農主義から重商主義へ転換し、開明的な政策をとりました。しかし贈賄政治に偏り失脚します。
田沼に代わって登場したのが白河藩主松平定信。彼は真面目な人格者、再び重農主義をとり、超緊縮財政で大不況。
海外では産業革命が起きつつあり、先進国による領土的侵略が始まっていました。我国に対しても北方からロシアが、南からは米国が、虎視眈々と狙いを付けていました。
そして国内でも、関が原で破れて外様となった薩摩を筆頭とする諸藩に、「権力闘争」のエネルギーが蓄積してきました。
次に庶民の生活を、江戸川柳にみたいと思います。
つづく
ひな祭り1 [上杉鷹山]
世界の子供たちに、充分な食料・愛情・教育の機会が与えられますように、祈ります。

我国には、ひな祭り・端午の節句・七五三。子供の成長を祝う節目が、多くあります。なぜでしょう?
子供の想い、成長を護る親の想い、国を護る為政者の想い、考えてみました。
九州の小大名家から、名家である上杉家を17歳で相続した上杉鷹山は、この時次の和歌を詠みました。
受け継ぎて 国の司(つかさ)の 身となれば 忘るまじきは 民の父母
無名の小家から、名家米沢藩の家督を継ぐ事になった。破綻したこの国を、若い私が立て直さなければならない。多くの抵抗と戦って、志を実現しなければならない。たとえどんな苦難があっても、忘れてならないのは、民を大事に育て上げたその父母の愛情の深さであると思う。その愛情を持って、改革を実現しようと思う。
たぶん、そのような意味でしょう。
つづく
芽を見つけ、育てる [上杉鷹山]
今日の予定(2月10日)
朝9時より、千葉本部 年少クラス
昼12時半より6時まで、文京指導
夜7時より9時半まで、千葉本部一般クラス
私にとっては、子供たちが自分の子のように、可愛い。情熱を注げば注ぐほど、しっかり伸びる手応えがある。技や姿勢がよくなるということよりも、心の強さ・言葉使いの正しさなどを見つけると、本当に嬉しい。
全体を見る時もある。
部分部分を見る時もある。
伸びる芽を見つけて、褒めて育てることが大切。
それはなぜか?
何事も内から外へ、現在から未来へ流れ出る。たとへ外はごまかせても、内はごまかせない。
内、平らかに。外、自然に成る。
所詮、技は形的・技術的なもの。子供たちが上手かどうかは、ずっと後でいいこと。
きちんと返事・応対ができる。
靴がそろえられる。
ため息や愚痴を、口にしない。
まず、内にある素心の「正しさ」だと思う。
外、自然に成る。
上杉鷹山(うえすぎようざん、米沢藩主)は喝破した。
「してみせて、いってきかせて、させてみて、ほめてやらねば、ひとはうごかじ」。
こうして素心を磨くように教導するのが、指導者の役割だと思う。

こんがら童子立像(不動明王の使者が、純心無垢な子供の姿をしている)
重要文化財 鎌倉時代14世紀 像高50.7cm 京都・浄瑠璃寺蔵







