武道とは:やわら・柔・和 [氣・丹田・体軸・足構え]
なぜ日本武術は、「やわら」と呼ばれ、「柔」とも「和」とも表現されるのだろう。「和」に至っては、合気道を学ぶ者にとっては「和合」にも通じ、理想の境地でもあります。考える価値は、あります。
「やわら」とは、
「静かに。そっと。徐々に。やおら」。
を意味します。それは当然のこと。
武術なら、「最小消費エネルギー、最小動作、最短運動で、最大の仕事量」を求めます。
それを達成するには、
相手が反応できない動きをすること。
だから
「静かに。そっと。徐々に。やおら」、なのです。言葉を変えれば、「等速直線運動」。(参考: 合気道にみるニュートン力学とその延長線上にある海と空の事故原因に関する考察 http://aiki.jp/honbu/egakusyu/news/umisora.html)
人間の赤ちゃんが、スッーと伸ばす手。カタツムリが直線に、ニューと伸ばす目(つの?)。あんな感じです。
これが怖いんです。正面からスッー、ニューと入られると、反応できない。
そこに、柔もあれば和もある。対立や力みの反対概念です。
どうしたらそれが、できるのか?
素振りの「素」や、案山子の「枯れた立ち姿勢」に、学んでくださーい!
武術・武道とは、技、受け身、礼や間合い、めつけを体得して、日本文化の神髄を身体で理解し、人格の完成を目指す道です。奥を楽しめるまでが、ながーい道です。
心楽氣和!
天地人とは [氣・丹田・体軸・足構え]
天地人とは、思想的なことは横に置いて、身体使いとして考えます。
心の中心であり、身体の中心である体中線(正中線)に、天地人に貫くように気を通す。そしてこれは上下前後左右に、ぶれない線とした時。
手足にロスなく、力を伝えることができます。
こうした目的意識を持った諸動作を、養氣錬丹と、いうことができます。
この観点に立脚すると、「剣法も柔法」も「身体使いと技の懸かり」が一致するので、これを「剣柔一体」と称します。
「舞う」と「踊る」の差をつぶやく [氣・丹田・体軸・足構え]
「舞う」とは、能や神楽を舞う、桜の花が舞う、そのような特殊な舞台設定された場での動作を表現する。
「踊る」とは、念仏踊りや盆踊りとして使われる。リズムに合わせた跳躍運動を主とした動作を表現する。
明治以前は、「舞う」と「踊る」を明確に区別して使い、舞が専門的技能を有する少数で演じられるのに対し、踊りは素人が群れをなす場合が多く、場も特殊な舞台等は必要としないという特徴がある。
ここで話は「武」に、転じる。
ある人の技をみて、「技が舞のようだ」と賞する場合がある。かたや、「技が踊りのようだ」と証する場合がある。
もちろん前者は、ある人の技を、高く評価している。後者は、ある人の技を、貶しているのである。
この場合の基準は、何であろうか?もちろん舞踊に当てはめて、舞に近いか踊に近いかを、言っているのではない。古来、武の想定場面がどこであるかを、考えなければならない。
屋外での戦いは安く、屋内での戦いは難し。
本能寺の変、寺田屋の変、吉良邸への討ち入り。城攻めはもちろんのこと、著名な戦いは屋内であることが多い。天井・鴨居・壁に囲まれて、狭い屋内で武具をどれだけ扱えるか、それが大問題であった。
屋内を想定した武術的訓練が、重要だった。
それゆえに居合腰に代表される、日本伝来の足構えと、体軸と、刀と。一致の身体使いが修錬されたのである。今日、居合道として残っているものが、その由来である。狭い空間の中で、コンパクトに身体を使い得物を使いこなす中に、技と錬りと美しさがある。
「技が舞のようだ」と賞する場合は、膝と腰と胸の柔らかさ。腰の落とし方、軸の立ち方が成り立っているということだ。
「技が踊りのようだ」と言えば、軸がぶれている、脇が空いている、飛び跳ねていることである。ようするに、最悪ということだ。
合気道は、会津藩城内の護身術である「御式打ち」に由来する。合気道は独自のものでそんなものと関係ない、と主張される方々もある。
前者に立てば、合気道は舞うがごとくで、なければならないと思う。
心意気とは [氣・丹田・体軸・足構え]
「心意気」とか「意気」とは、現代用語としても
「事をやりとげようとする積極的な気持ち。気概。いきごみ。」として使われることが多い。
そして武道の世界でも良く使われる言葉だが、別の使い方がされる。目付け心眼・武術的錬りを深めようと思うならば、深く掘り下げなければならない。
「目付けの大事」や「心が身体を動かす」とは、誰でも語ること。では「心眼とは何か」とか「初動の無い動きとは何か」と少し掘り下げるだけで、平明な説明は難しい。
そこで「意気」が必要になってくる。
心と身体を繋ぐものが、「意気」である。だから動作は、一瞬の中に「心意気体」(しんいきたい)の流れが、凝縮されたものである。
「目付け心眼」とは、意気をみることである。これを「意気を感じる」というべきものだが、今日の意味とは違う。肉眼とは、それに遅れて体に感応することである。意気をみることが出来れば、先先の先・先・後の先、自在であろう。
「初動の無い動きとは何か」、「心意気体」(しんいきたい)の流れを限りなく省いて、「心即体」・「体即心」と一体一致の境地に至ったものである。ここに至ればぶつかることは無く、和合であり合気であり、なんと言っても良い。だからゆっくりだけど、速い動きができるのだ。
いったいどうしたら、それが出来るのか。私はボンクラだから、氣・丹田・体軸・足構えの修錬を重ねることしか知らない。
「心意気」(しんいき)が「神域」に通じ、「意気」が「息」に通じるのか、単なる言葉遊びなのか、私はトンマだから、まだ語るに至らず。
松と柳、枝、雪折れせず [氣・丹田・体軸・足構え]
昨日は都心が大雪で、今朝は交通混乱が、報道されていた。古の人が聞いたら、どう思うか。きっと「松と柳、枝、雪折れせず」とでも、つぶやくのでは。
武の世界では、松と柳を例に、神妙な世界を語ることが多い。海岸に植えられる松、土手に植えられる柳は、風雪に耐えるからだ。
松の枝は、風雪を払い上げるようにして、耐える。柳の枝は、風雪を受け流して、耐える。両者の枝は趣は異なっても、幹と根の働きがしっかりしていることにおいて、同じでもある。
松の理を一刀流が好み、柳の理を柳生流が好むか。一刀流は相討ち「先の理」を好み、柳生流は受け流し「後の先の理」を好むか。
武は一つ、枝が払おうが受け流そうが幹と根の大切さは同じで一つ、先の理なくして後の先なくて剣の理は一つ。
ここにいう幹は、中心・丹田。ここにいう根は、足構え。ここにいう枝は、剣であり技のこと。
大地からの反発力を、足構えで受け止めて、丹田を通して、相手へ流す直線の波が氣である。「歩けば合気」・「合気に形なし」とは、よく言ったものだ。ただし相手との型・自分の型が出来ていればのことだが。
氣と呼吸 [氣・丹田・体軸・足構え]
案山子のように、真っ直ぐに立つことの大切さを、考えます。武にいう立つとは、ただ立っていることでは、ないかもしれません。武という場で、立つことが出来ているか?軸が天地人に通っていることの利益は、何でしょうか?
1、軸がぶれないことによって、こちらの気配を消すことが出来る。
2、軸が立ってることによって、縦軸直線運動が出来る。このことによる利益はさらに。
A、相手の目標に対して、最速最短直線運動が出来る。
B、自分の体軸を一辺とした三角の原理によって、最小面積最強効果を発することが出来る。
ここで難しいのは、1から2への移行が一挙動なのか、二挙動なのか。もちろん前者でなければなりません。ここに武における「氣」や「呼吸」の追及が生じます。 もちろん観念的修養ではないので、「一氣」・「一呼吸」とは何かという、武術的訓練から入ります。1から2への移行が、一挙動に完結していることを、「初動を消す」ともいいます。
それは剣術では、素振りの稽古から入ります。体術では、 当身や手解きの稽古から入ります。これがそのことの初歩の目的です。合気の力抜きの崩しの術が使えるのは、さらに別の精進が必要です。
ところが、このことの重要さが理解されていなかったり、ある何かが稽古に伝承されていないために、徹頭徹尾間違ったことをやりがちです。様式だけ真似たところで、合気のない合気道になりかねません。様式が合気道でも、捻り技をやっているようでは、似て非なるものです。
ここに古来、「三年稽古するように、三年かけて師匠を探せ」とか、「正師を得ざれば学ばざるに如かず」といわれてきたことの意味を、垣間見る思いがします。しっかり、自戒とします。
武の指導者とは 真っ直ぐに立つ [氣・丹田・体軸・足構え]
今日は、真っ直ぐに立つことの大切さを、考えます。これは案山子(かかし)の境地として、語られることでもあります。これを別角度で説明しようとすると、中国の木鶏(もっけい)が、参考になります。
木鶏(もっけい)とは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさします。紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明します。
「紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、 『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。
更に10日ほど経過して再度王が下問すると 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』 と答える。
更に10日経過したが、 『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。
さらに10日経過して王が下問すると 『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。」
上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしています。
この木鶏のたとえをキリスト教で言い換えると、「口伝・行伝・座伝」でいう座伝の境地と同じだと思います。最初は言葉で人を導く段階。次は実践を通して、導く段階。最高の境地は、指導者が座っているだけで、教えが伝わる段階があるといいます。これはやや順番が違いますが、武道でいう指南役と同じ意味です。
指南の語源は、中国の「古代中国の方向を指し示す車の下略で、人に方向や進路を迷わないように指し示すこと」とされます。武道でいう指南役とは、次のようになります。
武道の神様は北に鎮座します。北極星や北斗七星信仰がその背景です。戦において大切なのが、迅速な行軍や相手との位置関係を知ること。その基準が、北を指し示す北極星や北斗七星です。こうして国を護る神は北に鎮座しますので、武道場にかぎらず北側に神棚を設けます。道場の指導者は神棚を背に、稽古人を向きますので、南向きです。こうした場に立つ人のことを、指南役といいます。
上杉鷹山公は、「してみせて、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」と申しました。それは武道場の指導においても同じこと。第一段階は、指南役がやって見せる。次の境地は、いちいちやって見せずとも、少し助言すれば相手に伝わる段階。最高の境地は、指南役が南に向かって立ってるだけで、稽古人たちが自然と理を悟って、技が正しく行われるのみならず、人間として正されて行く。これが指南役の最高の意味であると、考えます。
足裏 底丹田の話 [氣・丹田・体軸・足構え]
真っ直ぐに立つ。
引力は私の身体を、地球の中心へ、引き込んで行く。
ところがありがたいことに、床が足裏を支えて、引き込まれて行く身体を支えてくれている。
その反発力を、足裏で感じる・臍下丹田で感じる・体軸へ伝える・相手へ伝える。
波状の力、氣で伝える。
今日は、足裏 低丹田の話でした。
Twitterまとめ投稿 2010/12/05 [氣・丹田・体軸・足構え]
aikijpこんばんわ。重心移動のない発力は、初動無い一挙動で、優れていますよね。ありがとうございました。RT @vtotai: 【重心の移動】前後、左右はわかりやすい。上下はどうだろうか?使いこなせすと面白い技になりそうな予感。稽古帰りだが早くも稽古がしたい!
aikijp本部パソコンやツイッター宛てに、お問い合わせをいただきありがとうごじます。今日は静岡市清水区出向のため、、差し控えております。しばらく回答をお待ち下さい。宜しくお願いします。 http://ow.ly/3jTOr
Twitterまとめ投稿 2010/07/31 [氣・丹田・体軸・足構え]
aikijp@ama1 喉?大丈夫ですよ。ご心配いただき感謝。ガン年齢に入っているので、時間に余裕のある8月までに、必要なところを全て検査するのです。不定期な生活が定期的だと、何をもって定期的生活とするか不明ですが、貴殿もご自身を労わりつつ乗り切ってください。身の回りから、日本を元気に!
aikijp@SAMRAICAT 村山会長はお元気です。「今回30周年だから3本、40周年の際は4本贈らせていただきます」というと、電話の向こうで笑っていました。合気道実心館の皆さん、記念すべき年に「心実る」でご精進下さい。そして真におめでとうございました。
aikijp@ama1 こんばんわ。今日は、耳鼻咽喉関連の癌検査をしました。「晩酌は、良い付き合い程度に、続けていいです」とのこと。光ファイバースコープで撮影し、その場で写真を見ながら説明を受けました。痛いと言うほどの苦痛はありません。喫煙される方は、是非一度お受け下さい。
aikijp@SAMRAICAT おはようございます。今年30周年?合気道実心館。お酒を贈ったら、ご丁寧に村山先生よりお電話いただきました。お元気そうでしたよ。今日は雨ですが、お元気にお過ごし下さい。
力抜きの手・呼吸技 [氣・丹田・体軸・足構え]
受けはO君。半身の一致と力抜きの手について説明をした。「O君の肩の崩れを、よく見ておくように」と前置きをして、呼吸技を見せた。
するとO君のかけている眼鏡が、すっ飛んでゆく。みんな眼鏡ばかりを見て、O君の体軸の崩れを、少しも見ていない。そこで再度、「しゃうがないな、もう一度やるから、よく見ておくのだよ」と私。
すると再度、O君の眼鏡がすっ飛んでいった。そして不思議な形状で、眼鏡が畳の上に立った。「あつっ!立った?」と、思わず私が言ってしまった。またまたみんな、眼鏡を注視していた。そして一同、笑った。
きっと今頃、眼鏡のことしか、思い出せないだろう。みんなは。
Aikido Rakushinkan Japan 合気道楽心館(東京・千葉・埼玉)
Movie Blog 剣柔一体(北海道苫小牧・東京・千葉)
Photo 写心館
AIKI.JP道場の情報
合気道の技と剣術:正面打ち一教 [氣・丹田・体軸・足構え]
合気とは、小野派一刀流剣術に由来する言葉である。この剣術は「一拍子相討ちの勝ち」を得意とする。
今日「相討ち」という場合、優劣を決することの出来ない均衡状態のことをいう。しかし剣術で 「相討ち」という場合、同時に討ち合って必ず自分が勝つ、必然性の論理である。
外から見ると、「一拍子に打ち合って同時討ち」に見えても、一方の接点が勝って相手の剣に乗り勝つ。これを「斬り落とし」という。
接点とは、斬り合った剣の交点のこと。これを極意歌で「切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ」と、表現する。「接点が勝る」これが「合気になる」である。(動画はここ)
では、何故勝るのか?中心が空かないぶれない、イメージが勝ちに完結したものである、腰の乗った剣の重さ、剣の交点が結んだようになって相手の体軸を捉える。様々な理由があって、一拍子相討ちの中に先手と後手が生じ、必然的論理の世界として自分が勝つのである。これを一言で「気で乗り、身で乗り、剣で乗る」という。これまた他流では簡単に、「氣剣体一致」ともいう。
論理とはいえ「気を出す」などの類の観念の世界ではない。古来伝えられた足構え・体軸・丹田の使い方、この地道な訓練の積み重ねがあっての「氣」である。
合気道正面打ちは真下に入って、受ける。これが大切な接点。この接点から相手の中心を捉える。
同時に自分の正中線で、相手の正中線を捉える。ここに△ができる。
次に相手の右肘に、自分の左手で接点を作る。この接点から相手の右半身を捉える。自分の左足も、お互いの中心を結ぶ線を、踏み込んで行く。
次の瞬間〇が出来て、相手の右半身と正中線はひっくり返る。お互いの関係は◇に納まる。
動画:http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3/e/e448f4cb4fc596667e8f9c81b48ef814
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