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いじめ・受験とか?能ある鷹は爪を隠す? [古武道:無限神刀流居合術・会津小野派一刀流剣術]

小・中学受験生の多い時代

中学受験生の多い時代です。東京では、クラスの三分の一が受験する小学校も、多くなりました。

その同じ比率で楽心館子供クラスのお稽古人様も、受験準備期へ入ると稽古を止めざるを得なくなります。昨日も保護者様がお出ましになって、ご挨拶をいただきました。

高校・大学受験生で楽心館を去る方々を加えると、3月末は毎日「今日でお別れですね」と、挨拶しなければなりません。お稽古を終える時、お子様のはなむけに「能ある鷹は爪を隠す」について、私の考えを話しました。(私の偏見なので、一般に通用する話ではないと思います)

能ある鷹は爪を隠す

一般に「有能な鷹は獲物に知られないように、普段は鋭い爪を隠しておくことから。 転じて、いざという時にだけその真価を発揮するということ。」と解説されます。

これは能鷹(のうよう)の話です。ある才能ある人がその才能を前面に出して働いていたら、人はどう言うでしょう?

「あの人のあの才は優れているが、品性は三流だな?」と、陰口を言われるでしょう。才があるからといって才で人を使うのではなく、才を隠して日頃は仁徳で人を導けば、喜んで人は付いてくると思います。

しかしこれを、小学生へ話しても、実践させるのは無理なことです。私は、とてもできませんでした。高尚な話は、むしろ思考停止に陥らせて、弊害あるかもしれません。

青少年は、爪をしっかり出して、どう使うかの訓練が大切です。

能なし鷹は隠す爪もない

過日、学校でのいじめを受けていることを動機に、入門した小学生ありました。その保護者様は、仰せになっていました。(いじめに対する親としての考えは)「殴られるのも嫌だけど、殴るのも嫌だ」と、楽心館を選んだ動機を語りました。

保護者様は、ごもっとものお考えと思いました。しかしこのように高尚だと、お子様は思考停止になり、現実の生きた対応はできないと思います。このままでは、お子様に解決策、生き抜く力を与えられません。

「殴られたら、相手が黙るまで必死に殴り返せばいいのです」。いじめる側の「殴る」は暴力です。守る側の「殴る」は暴力ですか?自分を守って相手を正す行いが、暴力であるはずないです。これが現実の生きた対応というものです。

そもそもこの小学生は、爪で例えているところの「生き抜いていく武器といえる何らかの手段」を、持っていないのです。「隠す爪もない」のが現状です。

鞘の内

居合術の教えに「鞘の内」とあります。「居合とは人に切られず人切らず只受けとめて平らかに勝つ」。刀剣を抜かずして、心法によって相手を制圧し、相手の戦意を削ぐことです。これが成り立つには、二つの前提条件必要とされます。

1.我は日ごろ、一拍子の抜き付け・一の太刀で切り捨てる技量を修錬していること。

2.相手も我に劣らぬ修錬をしていて、我の技の高さを見る能力を持っていること。

平和すなわち争わない均衡状態は、こうした両者内に成立すると考えます。

「殴られるのも嫌だけど、殴るのも嫌だ」とは、単なる逃げで、いつまでもいじめられ続けることでしょう。

爪をギラギラ出す、どんどん使う時代もある

生き抜いていく手段として、受験もいじめ対応も、似たところがあると思います。 競争社会、越されたら追い越す。その結果、全体が向上します。「なにくそ」と集中力発揮して、追い越していただきたいです。

「受験勉強を遣り通す、志望校に入学する」これらは手段にすぎません。卒業して実社会に生きる。するとここにも、競争・いじめ・潰し合いがある。ここを生き抜いて、我が人生の存在価値を発揮することこそ目的です。

爪を磨く、ギラギラ出す、どんどん使う時代が、五十歳まで続いて良いと思います。

五十にして天命を知る

子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰えず(こえず) 。

孔子先生はおっしゃいました。「私は十五歳のときに学問を志し始めました。三十歳にして独り立ちをし、四十歳で迷うことがなくなりました。五十歳のときに天命を理解し、六十歳のときに人の意見を素直に聞けるようになりました。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなりました。」と。

だから私は、爪を隠すのは、五十歳を過ぎてからでいいと思います。

物心両面で豊かになって幸せ

人は物心両面で豊かになって、初めて幸せを得ると思います。どちらか一方では、片手落ちです。芸道を歩んだ私は、五十歳を過ぎて初めて、生活が落ち着きました。

芸道

「物心両面で」という時、私にとって「物」は、家族を健康に食わすこと。「心」とは、芸道を歩むことです。

孔子先生の話は、私も腑に落ちるところあります。「四十にして惑はず」というように私は四十歳で、学びの方向が定まりました。「五十にして天命を知る」というように私は五十歳で、自分の実力と稽古指導の中身が両立してきました。

生活の豊かさ

妻子の生活を守ることは当然として、大切なのは両親への孝徳です。武芸の道へ私が進むことを大反対した両親ですが、その最期をお世話させていただいて初めて、当たり前の人間です。母は去年見送りました。父は自宅近くの老人ホームへ、今年一月に入所していただきました。

五十歳を過ぎて、やっとのこと当たり前です。


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